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王国の相続人(Kingdom Inheritor)(2017/4/30)

弁証学は非常に重要です。これは王国の相続者となることに密接に関わっています。なぜ神様を信じるのかという信仰を弁護することは、信仰の絶対的に中心的な重要な要素だからです。このような内容すべてを記憶しなさいというわけではありませんが、弁証学の分野でこのような議論をして、様々なポイントを覚えて自分を訓練して、いつでも誰とでも対することができるようになることはすばらしいことです。弁証学を続けていこうとするなら、講義を行うことが良い方法です。そしてそれをPCで準備するのです。すべての情報を保持しておくのが難しいこともあります。このような内容は非常に詳細なものがありますので。

しかし自分の信仰を弁護して信じる理由を持つことができるということは、絶対に重要なことです。自分の為だけでもなく、神様の為だけでもありません。なぜなら、神様は愛していますといって動くロボットのように行動する人を求めてはいないからです。本当に神様を愛する者を、そしてなぜ神様を愛するのか分かっている者を求めておられます。それだけでなく、皆さんが誰かと話をする場合にも良いのです。大学のようなリベラルな場所に行くと、敵対的な無神論の文化に直面するからです。屈辱的なことを言われて攻撃を受けるのです。自分が愚かで教育を受けておらず、孤立していると感じさせられるでしょう。しかし皆さんが自分を守る準備ができているならどうでしょう。口論する準備ができていれば、それが起きたときにもっと準備が整った状態で臨むことができます。敵対的な場所に飛び込む前に、少なくとも自分自身を守ることのできる手段を持ちたいと思うのです。

弁証学は自分自身のため、自分と神様との関係のためだけでなく、あなたが話をする人々のためであり、あなたと他の兄弟姉妹たちが、神様を信じるに足る十分な理由があることを知るに必要不可欠なのです。それには一般的な神様だけでなく、キリスト教の神様、愛の神様、正義の神様、善の神様、物質や宇宙を超越した神様といったものもあります。これらが弁証学の様相なのです。

弁証学には数多くの窓があり、復活もその1つです。The Case for Christも弁証学ですが、それはイエス様の復活という弁証学の中の1つのセクションです。弁証学の分野は非常に膨大です。そしてそれぞれのトピックについて本が書けるほどです。非常に複雑で細かいのです。無神論者が「神様を信じる人は教育を受けていない愚かな人であり、神が存在すると信じるに十分な論拠はない」と言って通用した時代は過去のものです。それは90年代、2000年代に完全に打ち倒されました。

今日も見せますが、ウィリアム・レイン・クレイグという人物が大学の神々に直接挑戦し始めました。オックスフォード、ケンブリッジ、ハーバードなど、世界のあらゆるトップクラスの大学のトップの無神論者たちに対して挑戦したのです。すべての学生の前で公開討論を行いました。この人物は本当に聡明でした。

ウィリアム・レイン・クレイグの業績を学ぶことは、私にとって救いでした。例えば、一世の人々は原理に出会ったわけですが、私は既に神様を信じていたので、神様が存在するのかという疑問を私は持たなかったのです。神様を既に信じていますので、知りたいのはこれが神様の導く正しい道だろうかということなのです。

多くの人が様々なキリスト教の宗派で信仰を持って育っていますが、ポストモダン時代の若者たちは、つまり50年代、60年代以降のことですが、完全に無神論的な世界観を浴びせられていました。それは大多数の教授たちから来たものです。80パーセントがマルクス主義者や左翼主義者、共産主義者です。高等な教育を受けた人々が広く無神論を教えています。私が高校生のときリーファードという英語の先生がいて、彼は9年生のクラスで「聖書がどのようにしてできたのかわかりません。人々は聖書を信じていますが、それが本当は神話だということを私達は知っています」というようなことを言っていました。しかしそれが文化なのです。聖書や神を信じることは神話だと。ゼウスやアテナを信じることのように。信じるに足る十分な理由はないのだと。若者はそのような内容を浴びせかけられ、文化的な不可知論者になるか文化的な無神論者になります。私の場合、ある時期に少し不可知論者だったかもしれません。

私は仏教を勉強しましたが、仏教では神が存在するかどうかは問題ですらないと言うのです。ただ自分の悟りの修行に集中しなさいと言うのです。ですから仏教では論争にすらなりません。しかし常に非常に不安な何かが心の底に潜んでいるのです。なぜなら神が存在するのかというのが最終的には最も重要な問いだからです。もし神が存在するなら、私たちの生活を変えなければなりません。ですから非常に重要な問いなのです。

多くの若者たちは原理の講習を受けましたが、彼らはその前に神様が存在するかどうかという探求を行っていません。ですから原理を勉強しても、心の中では神様が存在するか分かっていません。彼らはまだ文化的な無神論者、または不可知論者だというのです。ですから神様のことを聞いても頭の中ですぐに「これは神話だ」「よくわからない」といったようになってしまいます。

私達は2007年か2008年頃、韓国で地域の教会に弁証学を取り入れ始めました。カープでは弁証学を準備しなければならず、討論をしなければならなかったのです。鮮文大学には中国人学生もいましたので、中国の共産主義者と討論をしなければなりませんでした。公の場で正式な討論を行わなければなりませんでした。それは神が存在するかどうかという問いでした。その質問に答えられますか。確信がありますか。どうしてわかるのでしょうか。「あなたのお父さんやお母さんが言ったから、教会や牧師が言ったから信じているのでしょう。それは神話のようなものです。ゼウスやミトラを信じるようなものです」と言うのです。

実際に議論を挑まれると何といって良いか分かりません。多くの人は自分を弁護する準備ができていませんので、イライラするでしょう。「そうですね。神様は私を愛していますから、あなたのことも愛しています」と言って。しかし無神論者にとって、それは嘲りの対象でしかありません。「なぜ神を信じるかも分からないでただ神は自分を愛していると言っている。みんな、彼がどれだけ愚かか見てみなさい」と言うのです。そしてあなたに社会的な圧力と罪悪感によって、神を信じるのは愚かだと思わせるのです。私達はこれが「欧米の世界」の一部だということを理解しなければなりません。少なくともアメリカでは過去50年の間そのようであったのです。それは今変わろうとしているのかもしれませんが、非常に深刻な問題点です。

私は弁証学について長年話してきました。1年に1回ほど講義もしています。それは神の存在という主要な議論についてです。5つの主要な議論がありますが、皆さんにお話ししているようにそれはウィリアム・レイン・クレイグの業績に基づいています。簡単に聖句について話しますが、これもまた王国のシリーズであり、それを弁証学に結び付けてみたいと思います。

私達はこれからウィリアム・レイン・クレイグとクリストファー・ヒッチンとの討論を見ます。ヒッチンは最も優れた雄弁家の1人です。哲学者ではなく無神論者側の雄弁家です。そして彼はクリスチャンを揶揄する才能の持ち主です。彼は非常に説得力があり、尊大な言葉を使います。彼はクリスチャンの相手を攻撃し、揶揄し、嘲けりますが、そのようなやり方で議論に勝つのです。しかし実際に議論に勝っているのではなく、一般的な意見を使って議論に勝ったように見せかける良くあるやり方なのです。

彼はそれが非常に上手でした。しかしこれは2009年のもので彼が癌で亡くなる直前か、数年前のものです。この講義はカリフォルニアのキリスト教大学であるバイオラ大学で行われました。ウィリアム・レイン・クレイグと討論していますが、初めてのことではなく確か2度目だったと思います。

生徒にとっては、神が存在するかどうかというその質問をする機会なのです。彼が行くところは、そこが世俗的なキリスト教大学であっても満員になります。ハーバードに行った時も満員でした。ドーキンズとも討論を持とうとしましたが、彼はウィリアム・レイン・クレイグとの討論を恐れて現れなかったのです。

クリストファー・ヒッチンズも、あるところでウィリアム・レイン・クレイグは最も恐ろしい討論相手の1人だと言っています。なぜなら、彼は非常に鋭く、聡明であり、弁証学を非常に深く知っているからです。ほんの小さな事を彼に問いかけても、1つの論文のような内容を持ち出します。彼は途方もない人物であり、私の命の恩人です。

私はブルース・リーの武道を研究しましたが、彼は哲学者でもありました。ジークンドー、ブラジリアン柔術、格闘技はすべて哲学と結びついています。それで私は様々な哲学を追求したのです。それは西洋の哲学ではなく、仏教や東洋の哲学でした。そして最終的に道徳哲学、あるいはまだ弁証学にたどり着いたのです。それはまったくの救いでした。あなたに知能があるなら、精神的に何かの傾向があるなら、何か完全に理解しなければならないことで非難を受けるのであれば、あなたがそれに責任を持つ前に、弁証学が必要になります。それほど知的な問題ではないのだという人たちもいます。ウィリアム・レイン・クレイグもそれが知的でないということにはならないと言っています。皆さんにその討論を見て欲しいので私からすべてその議論を説明はしませんが、弁証学は絶対的に重要なのです。自分を弁護し、自分の信仰を弁護し、神様に対する愛を弁護するのです。

あなたが神様を信じるその基盤が何か考えてみてください。なぜキリスト教の神様を信じるのでしょうか。なぜ愛の神、正義の神を信じるのでしょうか。神がいるとしても、なぜ神は愛の神、正義の神でなければならないのでしょうか。なぜ神はまるで時計を見つめるだけの人のように、無頓着で無関心でいるのでしょうか。こういったあらゆる疑問を弁証学で扱っています。弁証学は、皆さん自身と皆さんの信仰を世界に向けて表現する能力に、直接的な影響を持っています。そのような意味で、私は、なぜキリスト教の神を信じるのかというような分野に関するものではない、様々な問題を扱う通常の哲学に対してよりも、格闘技にもっと注意を払っています。今日の聖句を読みましょう。

ガラテヤ人への手紙5章 19:肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20:偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21:ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。22:しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23:柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。24:キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。25:もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。26:互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

それはキング・ジェームズ版で、私はVariance(敵意)、 Emulations(争い)という2つの言葉に少し戸惑いました。もっと容易な方法はニュー・リビング版を見ることです。両方見たほうが良いです。キング・ジェームズ版は最も正確で、多くの翻訳版がありますが、すべてはこれを参照しています。当時のジェームズ王が、すべてのキリスト教の学者を集めて原語で存在している文章を元にして、最も正確な翻訳をしようとしたのです。歴史的に見て最も正確です。もう1つの翻訳はもっと現代的な言葉で明確に理解できるようになっています。(ニュー・リビング版を訓読される)

さて、ここで多くの人が混乱します。「悪い人が何かやっていてもそれに対して怒るべきではないのだろうか? それに対して口論し、そこから離れることはできないということだろうか? 悪と1つにならなければならないのだろうか?」と。それが皆さんを相対主義に入り込ませてしまうということが分かるでしょう。

神様が神の武具を身に着けるように言われたことを思い出してください。足に平和の福音の備えを履くということは、平和を持って戦争に行くことができると言う意味です。あなたの精神は平穏であり、心は平穏です。不正や悪、悪魔の策略と戦うような場に入ることができるのですが、平穏であるということです。それもわかるでしょう。クレイグ博士は平穏なのです。彼は自分の信仰を確信しています。非常に力強い信仰を持っています。彼は世界の最高の知性を持つ人々に立ち向かいます。世俗的リベラル派の、進歩主義カルトの、文字通りの神々のような人々に対して。彼はそのような人に立ち向かい討論します。彼は穏やかで正確であり、冷静です。そして弁証学については活気にあふれています。

討論のビデオを見ましょう。再生して最初はボリュームを切ってください。見てください。学生たちで満員です。ウィリアム・レイン・クレイグは弁証学において最高のレベルなのです。彼は、弁明と合理性を用いた、キリスト教の信仰の卓越した擁護者です。私達がはっきりとしなければならないのは、その議論を注意して聞くことです。それからもしあなたが若い人であるなら、ヒッチンズが言う事を聞いてみてください。彼は非常に雄弁で、クリスチャンを揶揄する方法を知っていて、あなたを一般論に引きずり込む方法を知っているので、あなたはウィリアム・クレイグの言ったことも忘れてしまうでしょう。彼は自分のカリスマ的な罠にあなたを引き込んでしまうからです。

皆さんは討論の中で、とても頭を働かせておかなければなりません。大衆が溺れるような事にあなたも溺れてしまってはいけません。明確な論理を持って、明確な思考を保たなければなりません。これを見たからと言って、あの討論はかっこいいとか、彼は感動するようなやり方ではっきり表現している、というふうには思えないでしょう。そんなことはまったくありません。それは合理的なのです。頭でそれを理解できるのです。それをつかんで理解できれば、自分で表現して人々を救うことができるのです。

カリスマ的で良い論述をしている人の話を聞くと、それに取り組むのが容易になります。しかし、同時に自分ではウィリアム・レイン・クレイグのようにはっきりと表現できないかもしれません。私やギデオンのようにはできないかもしれません。ですから問題はあなた自身が、なぜ神を信じるのかを表現できるのか、弁護できるのかということなのです。そうでなければ、あなたが聖書の神と呼ぶ、神話の世界のゼウスのような宇宙の空飛ぶスパゲッティモンスターを信じているのかということです。

この討論の構成は、伝統的な学術的討論の方法で行われます。最初の発表者が15分か20分発表します。次の発表者が最初の意見を述べます。それから最初の発表者がその無神論者に反論を行うのです。クレイグが先に自分の主張を行います。そしてクリストファー・ヒッチンズが自分の無神論の主張を発表します。それでウィリアム・クレイグがそれを批判するのです。それからクリストファー・ヒッチンズが批判する時間を持ち、またクレイグとなります。それで3つ目のセクションがもっと短くあると思います。彼らは2回の反論の機会があります。それから聴衆の質疑があります。

皆さんこれは非常に重要です。あなたの信仰を守れるでしょうか。主張に注意を払ってください。表面的なものや形式ではなく、主張そのものに集中してください。これが弁証学であり正式な討論の本質なのです。非常に多くの観念がありますので、多くの時間がかかります。それぞれの様相が文字通り、数多くの本に基づいています。この議論をみても理解が浅いかもしれません。1つの主張に焦点を当てていると、すでに負けているのです。なぜなら、それが最も弱い主張の1つであることに気づいていないからです。それを探求すれば完全に論破されてしまいます。ですからこれが問題なのです。わずかな知識が大きな危険につながります。もしこのようなことを追求するのであれば、若い人たちは探求すべきなのですが、浅くではなく、深くするのが良いのです。これはほんの少し触っただけのことです。

ヒッチンズがやったことは、人身攻撃と中傷と揶揄を組み合わせたものです。それが彼の主張ですが、実際はまったく議論ですらないのです。そして彼が挙げたすべての事について、ウィリアム・レイン・クレイグは文字通り、丸ごと1冊の本を書くことができます。彼はその論拠が間違っている理由や、彼が本当の議論を理解していない事などを具体的に示すことができます。

弁証学は非常に深いものです。これは特に一般大衆のためのものではないでしょう。なぜならそれは非常に内容が濃いからです。これらの論拠のそれぞれが非常に深い点や、特定の問題に特定の言葉で入り込んで行きます。使われている言葉も彼らが非常に明確にどのような哲学的用語が使われるか考えたものでなければなりません。すべての人の思考のために作られたものではありませんが、それを調整することができるでしょう。あなたは様々な人々に対応するための武器をたくさん持っています。それには非常に知的な人々もいます。必ずしもあのような分野の人々にだけ限ったことではありません。しかしそれは万能の解決策ではないということです。なぜなら、最後に最も強力な物は知的な議論だけではなく、それらの議論がどのような種類の文明を作り出すかということなのです。そういうわけで、自由社会が、天一国憲法が、キングズレポートが、日曜礼拝が、いつも私達はその思想がどのような文明を作り出すかということに焦点を当てているのです。なぜなら、知的な議論を行うだけでは十分ではなく、それで終わりではないからです。なぜなら、これらの考え方はすべて、最終的には現実の政治機構、現実の天使長的な機構、現実の文明、現実の世界のシステムとなるからです。それが圧政となろうと自由と責任となろうと、最終的にはすべての人の生活に適用されることになります。

1日中かけてもこれを学ぶ事ができるでしょう。もしかしたら深く理解できた人は少数かもしれません。たとえそれを追及したとしても。なぜならそれだけ中身の濃い内容だからです。沢山の本を、何千、何百ページと読まなければならないのです。率直に言って、ほとんどの人がやらないでしょう。99.999999パーセントはやらないと言えます。しかし、どのような文明を作るのかということは重要ですので、私達の政治的な見方は非常に重要です。キリスト教の信仰がどのような政治的な見方を作り出すのか。このように様々な宗教を持ち出せば、それらが中央集権のキリスト教会、中央集権のキリスト教から来たものであることに気づくでしょう。もちろんそれが悪を作るのです。イスラム教や科学的進化の神は言うまでもなく。

もう一度言いますが、非常に多くの論説、ポイント、評価などがあるので、最終的にどんな文明をそれが作るのかという事が重要です。それが王国の福音について異なることです。これが私達の主張で、それに対してあなたの主張はこうで、これは合理的に言えることだなどという事だけではなく、それがどんな文明を作るのか、それが人間の自由と責任にとって最高の場所を作るのかといった事も見るのです。

彼は好んでカトリックの歴史的な国であるとか、ヒトラーがカトリックに熱心で教会が助けたとかいった事を述べます。その通り、私達は中央集権の国の運営するキリスト教には反対です。欧米の教会ですら多くがそのように国営のようになってしまって国に味方したメッセージのみを出しています。なぜなら天使長によって圧倒されたからです。しかし、宗教や宗派が問題ではなく、神様との関係が重要だとする非中央集権のキリスト教は、直接、自由意思、自由な選択と責任へとつながるのです。それが人間の運命であり、この星に住む者の運命なのです。

このような弁証学というものは少なくとも精神を活発化させます。若い人達はこれを勉強することを勧めます。しかし、たくさんの勉強をしなければなりません。怠けすぎてできなければ・・・、おそらくほとんどがそうでしょうが。私も専門家ではありませんし、ウィリアム・レイン・クレイグは私の何百万倍もの知識を持っています。私も彼が習得したすべての弁証学のトピックに費やした労力に及ぶほどの内容を読んでいません。しかし、それを追及する人のためのリソースはあります。本当に勉強するのであればすべての内容を読んで、すべての反論を読んでそれを証明しなければならず、それでやっと何かを主張できるようになります。

このように消えつつある知識を習得して議論を行い、合理的な証拠を持つというなら、それは討論ほど簡単ではなく、非常に深く、大量の本を読む必要があり、精神的にも知的にも大変な苦労が必要であり、多くの時間を費やす必要があります。もしあなたがそのようになれるのであれば、それは良い事です。神様はあなたを用いるでしょう。しかしながら、私はウィリアム・レイン・クレイグがすべての無神論者を納得させるとか、ウィリアム・レイン・クレイグがアメリカと世界で自由主義運動の発展に責任を持って来たとか、そのような幻想を持ってはいません。そうではないのです。なぜなら、彼は最終的には神学的哲学的な思想にのみ、焦点を当てるようになるからです。それらは重要であり、政治的な見方の基盤となります。しかし、最終的に政治的な見方と、正しい政治的な理解と解釈が非常に重要なのです。

霊的な事だけでなく、政治的な事にも言及することが重要です。なぜなら、政治的な解釈が重要であり、現実の政治が現実の文明につながり、現実の文明が地上地獄にも地上天国にもつながるからなのです。

いつもキングズレポートでやろうとしている事がそういう事です。私は弁証学の一端を経験してそれがどれほど中身の濃いものかを知って欲しいと思います。これは非常に浅く表面的な討論です。実際は、その一つひとつが何千ページにもなる内容なのです。

クリスチャンは合理的な意見を持っていません。討論の中でもちろん見ることはできますが、深く探求すればするほど、多くの無神論者が・・・。20世紀の最高の無神論者であるアンソニー・フルーのように・・・。彼はすべての主要な無神論者の先駆者でしたが、死ぬ前に「私は神が存在すると認めなければならない」と言いました。

もし本当に勉強して投入し、深く検証しようとするなら・・・。ただ討論を見て自分はクリストファー・ヒッチンズの言っている事が好きだと言うだけでなく・・・。そのようなことはありません。あなたはそれを証明する事すらできません。怠けて逃げようとしてはいけません。誰もそれを受け入れないからです。ここにいる人は皆武装しており、分かっています。そのような主張をするなら深く掘り下げることができるべきです。人々はあなたに挑戦するでしょう。

弁証学は非常に重要です。聖書には、私たちは自分の信仰を、なぜそのような事を信じるのか、進んで証しすべきだとあります。しかし何度も言いますが、それは合理的な事だけではないのです。私達の個人的な経験もまた重要です。それが5つめの議論であり、個人的経験の事なのです。彼が言う理由は、そして彼はそれに言及していませんでしたが、もし私に個人的な経験があり、それが間違いだと信じるに足る十分な理由を持っていないのであれば、それが真実だと信じる理由を持っているという事です。

例えば誰もがいつもイエスの幻を見たとか、クリシュナの幻を見たという話をします。ムハンマドの幻を見たとか等々。それがすべて真実だと言えないのでしょうか。言えません。その前に4つの主要な議論があります。宇宙論、目的論、歴史、道徳などです。それらの議論が基礎です。それらは私達の経験における信念の知的で合理的な基礎なのです。ですから、もしあなたがこれらの議論を、最初にすべて誤りだと証明できるのであれば、経験は重要でないと言えます。しかしながら、無神論者は宇宙論的な議論を克服できず、目的論的な議論を克服できず、歴史的な議論を克服できないのです。誰も客観的な道徳価値に基づく道徳論的な議論に勝てません。ですから、彼は私の経験が間違っていると言える合理的な証拠を持っていないという事です。それで、私たちは神様との経験を持っていますので・・・。ですから私は、人々は呪われていると言っています。自分自身の頭の中で、そういう意味で自分は幾分呪われていてこの事を切り抜けなければならないのだというように。神様との体験をしてそれを感じて分かるという人々もいます。

私が若い時の事です。自分は神様が本物だという体験をする必要があると思いました。これは本物だという証拠を持っているだろうかと。科学者が言うように、それは希望的な思考の投影なのだというようなことではありません。それは本物でしょうか。その論拠は何でしょうか。それが弁証学なのです。神様について明確にならなければ、讃美歌を歌う事も難しいのです。あなたが神を信じることが、ある種の迷信か、ヒッチンズがいつも馬鹿にしていましたが、自分の属するコミュニティや親が継承した信仰のようなものだと思うのであれば、讃美歌を歌う事でさえ問題があるのです。自分の頭の中で2つの考えに分かられて自問します。祈祷するときでさえ別々の考えが反目し合います。

もしあなたにそれが当てはまるのであれば、なぜ神を信じるのか、なぜ神が存在するという主張がより合理的なのか、という強い合理的な基礎を持つことが重要なのです。それで神様を経験すると、頭の中でそのような議論に変える事ができ、自分の中の反対側の考えと戦う事ができるのです。それは大学教授や大衆文化、相対主義、文化的無神論によって植え付けられていたものです。それはもちろん社会的な進化論などにつながるものです。無神論者がどれほど進化論に言及するか注意してください。進化論の確かさについて、どれだけ言及するか注意してください。まるでそれが宗教的な教義であるかのようです。ウィリアム・レイン・クレイグが、私達はマトリックスの映画のようにコンピュータープログラムの中にいるかもしれないという統計学的な確立について示しただけで・・・。それはイーロン・マスクです。世界でトップクラスの技術者の1人です。進化が起きたとするよりもその可能性の方が高いというのです。彼が、頑なに進化について話し、それが絶対的に真理だと言っているのを見たでしょうか。

現実は、人々が怠惰すぎてそれをやらないという事なのです。私はすべての本を読んだというわけではありません。もちろん違います。ウィリアム・レイン・クレイグは遥かにたくさんの本を読んでいます。いくつかの課題については、私はまだ新参者です。私も探求しようとは思いません。その課題について更に1万ページも読みたいと思いません。そういう意味では、人々がどう感じているか理解しています。

しかし主要な教義に関しては、それがどこから来たのかを知る必要があると思います。それを知らずに宗教やキリスト教を批判しないでください。追及し証明してください。もしそれが明確でないなら、神様を賛美する歌を歌っても「私は一体何をしているのだろうか」と思うでしょう。私は何か狂信的な宗教の中にいるのでしょうか。合理的な思考を持たない雰囲気の中に。そうではありません。弁証学と信仰を成熟させた人々が賛美の音楽で称えるのは理由があります。ウィリアム・レイン・クレイグは讃美することを愛していました。なぜなら彼は神を信じる事、聖書の神が最も理に適っている事についての非常に合理的な議論を深く理解していたからです。

彼が賛美歌を歌うときも、すべての膨大な知識を持っており、また彼は無神論者側の主張もすべて聞いていながら、世界の頂点の人々に対して論破することができるので、自分の信仰に確信を持っているのです。すべての人がそのレベルに達するべきだと言っているのではありません。私もそのレベルではありません。私の講義もほとんどが彼の業績に基づくものです。しかしそれはやはり役に立つのです。なぜなら、私たちは社会的に、この物質世界を超えるすべてのもの対して敵対的な文化によって、文化的に攻め立てられているからです。もちろん、無神論、物質主義、ダーウィニズムの結論は100パーセント、クリストファー・ヒッチンズが言っているような事であり、彼は、自分は知性があり不可知論であり、賢い人間であり、あなたの主張は馬鹿げていて、私の主張は(その主張はウィリアム・レイン・クレイグを揶揄しているだけで実際議論になっておらず、主張であるかのようにしようとしているだけなのですが)・・・。それで彼が言おうとしているのは、知性的な科学者は私のように考えているのだ、という事なのです。信じるのは自由ですが、それは嘘と妄想のファンタジーの国に住んでいるということだと言っています。

こういうわけで、エリートは、学術界は権力を持つと必ず共産主義、社会主義、全体主義を作り出すのです。100パーセントそうだというのです。特別な知識を信じる人々、また超最高レベルの知識人は、中央集権の権力、天使長的な権力を作ろうとします。そしてもちろん、それが地上の地獄を作り出すのです。どのようにして他の人々を支配するのかということに結びついた思想なのです。キリストにあって自分たちの世界を他人に押し付けようとしないのが真実の人です。神様は私達に自由意思を与えました。神様は私達に、神様を選ぶのか拒否するのか選択する自由意思を与えているのです。最終的に私たちが責任を持つのです。最終的に自由意思が生きていても真の責任があります。

そして自由を築く文化では、このような話し合いと討論が許されていますが、また責任が。道徳的な文化だけがあるのではなく、様々な意見を許す文化もありますが最終的に無神論者がやろうとする偽りの見せかけに曲げられることはありません。彼らはまるでクリスチャンが自分たちを禁止したいと思っているとみんなに言うようにします。相対主義自体がまったく不寛容な考えであるのに。自分たちの主張が絶対的真理で、それ以外は違うというのです。

深く探求すればするほど圧倒されます。重要なのは、思想が文明を作り、文明は本に基づいているという事を忘れてはならないという事なのです。すべての文明が本に基づいています。ヒッチンズの文明、20世紀の文明は本に基づいていました。聖書に基づいていたのではなく、もちろんコーランは別ですが、本に基づいており、それはダーウィンにせよ、フロイトにせよ、ニーチェにせよ本に基づいていたのです。どの本に従うかが現れてくる文明の性質を決定します。そういうわけで、神様の王国では本が聖書に、原理に由来し、同じ根源に由来することが重要なのです。それが私達に自由と責任を与え、宇宙を創造した同じ神様が彼を拒否するか受け入れる選択肢を与えているのです。それが愛、慈悲、恩寵そして満足を与えてくれます。同じ神様が私たちの持つ疑問に合理的に取り組むことを許し、弁証学を推し進め、そのすべての過程で私達を受け入れて自重させてくれます。そして私達が神様を分かるとき、彼の臨在に納得するとき、私たちはまた別のレベルで神様を体験できるのです。天聖経を読みましょう。

天聖経1619(英語) 天と地の国が、愛によって一体化しなければならないのです。このように 皇族圏さえ成すようになれば、霊界に行っても地上に行っても、すべての中心になるのです。ですから、どこでも一体を成せるのです。(232-326,1992.7.10)

神様の王国に含まれ、神様の愛のゆえに私たちは真理を語ることができ、困難を乗り越える事ができ、弁証学を学ぶ事ができ、神様の政治的な王国について、王国の本質について説くことができます。そして私たちは目覚めた人々を、精神的に、そして肉体的にも虜になっている人々を、神様の地上天国に連れてくることができるのです。天一国憲法における天使長の、サタンの抑圧からの解放です。すべての栄光を神様に捧げましょう、アーメン。

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