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王国の救い(Kingdom Salvation)(2016/8/14) 

今日は王国の救いについて、ルカの8章です。先週もルカの8章でしたが、今回はもっと先に進んだところです。10節から15節まで一緒に読みましょう。

10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、たとえで話すのである。11 このたとえはこういう意味である。種は神の言である。12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。

イエス様がたとえ話をした後、その説明を弟子たちにしているのです。先週、神様の法を理解することがなぜ重要なのかということについて学びました。ここには格闘技を学ぶ若者たちがいますが、壁には十戒と人権宣言が掲げてありますね。それを読んでいないようですが、トレーニングの前に彼らに読ませないといけませんね。

十戒は非常に重要です。聖書には神様は完全であり、法は完全であるとあります。神様は十戒の源泉であり、十戒は神様の性質が外的に現れたものなので、神様は姦淫や忌み嫌うこと、また盗むこと、うそをつくことはしません。神様と法とは決して離れてはいません。しかし先週学んだように、法を実践したからといって天国に即行けるわけではありません。法に従うことだけでは、地上においても霊界においても神様の存在と救いにはつながらないのです。若い時、学習期間にはこの間違いを犯しやすいのです。

法に従うだけでは救われることはありません。聖書には信仰によって救われるとあります。イエス様はすべての戒めの究極はなんだと言われましたか。あなたの神様を、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すべてを捧げて神様を愛しなさいといわれました。すべてです。イエス様は神様に対する愛がそのように真剣であるべきだと言うのです。もし法によって完全になろうとするなら完全でなければなりません。人間的になって少しだけごまかしたとか、例えばインターネットでミュージックをダウンロードしたとか、みんなやってるといっても盗みには変わりありませんね。みんなが嘘をついてるから私も嘘をついたと言ってもそれは嘘つきに変わりありません。どんな小さな嘘であっても、完全な神様からすると神様はそのような要素を持っておられないので追い出されてしまいます。そばに行ったら分かってしまいます。神様にとっては交われないものです。そのような内容と韓お母様に何がおこったかについて話しました。十戒について話しました。

一体どうしてそのようなことをしたのか、なぜそうするのかについて分析しました。覚えていますか。3年前、自分が女王だといって写真を全部変えてしまいました。その背後には何があるのか、四位基台の位置を変えてしまう、祝福リングからお父様の名前を外してしまうことは、完全な異端となることです。

お父様を祝福の契約から外してしまいました。その他、オモニは去年、様々なことを語りました。「すべてのキリスト教の歴史は独生女を待っていた」など、イエス様との関係を持っている真剣なクリスチャンには決して通用しないのです。絶対に通用しません。真実ではないのですから。100パーセント不成功です。真実ではないのですから。それは空が青いのをピンクだと言っているようなものです。私がピンクだと言っているのでピンクなのです。ピンクだと信じなければいけません。ピンクだと信じない人はみんな罰せられます・・・と言って。お父様の教えと聖書の教えを変えてしまいました。それから韓家の血統は偉大で、韓帝国だとか、また「再臨のメシアである独生女がくるのが韓国であった」など、色々言っています。私はさまざまな証しや話しをしました。私が「お母様は勝利された真のお母様です」と言ったときに、お母様は「違う、私は神です」と言ったのです。私は「そのようなことは言ってはいけません。それを言ったら呪われます」と諫めました。神様は今や天の母であるという新しい神学の教科書を編集していたのを知っていました。ここでも何度か韓国語版を見せました。それが去年のことでした。ところが今週、天正宮に430名の牧会者を呼び集めて、韓お母様は「これからは天のお母様と祈らなければならない」と言ったのです。それに止まらず「誰でも自分(韓お母様)を通してしか救いを受けられない」とまで言いました。「誰も」というのは、もちろんお父様も含まれます。

私たちは、韓氏オモニが、自分が神だと宣言するといいました。3年前に自分でそういったのを聞いていたので、オモニがどのように考えているのか、何を信じているのか、はっきりとわかります。

西洋の教会はこのことを隠そうとしました。3年前、天の父母様と呼び、二つの神への信仰を広めようとしたとき、西洋の教会はそれが問題であると分かるので、最初からメンバーに嘘をついてきました。天の父母様と性的区別をなくし、3年以上もの間ごまかしてきたのです。しかし韓国ではそれはできません。韓国語には「性的中立gender neutral)などという言葉はないのです。

これが今週起きたことです。お母様自身がでてきて暴露しています。話せば話すほどに異教であり、偶像崇拝であり、自己中心であり、神への冒涜であり、自尊をあらわにし、自分を高いところに置く神学であることが表れてきます。これらがルーツで高いレベルに主張し、上がって行くというのは既に述べました。

自分の他に誰も神としてはいけないという十戒の最初の戒めがあります。

出エジプト記 20章 3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

母はお父様が息子に相続したものを盗みました。なぜ母親がそういうことをするのかという人がいます。普通の母親であればそういうことはしません。子供の面倒を見て、育て、投入してきているからです。しかしエリートの母親は普通の母親と違い、他の人に子育てを任せているのです。だから子供達もダメになってしまうのでしょう。子育てを第3者の手に委ねてしまっているからです。そうですよね。この現象がどんな社会でも至る所で見られます。

彼らは子育てを外部に任せるのです。それが真実の関係を破壊します。それが親に情的にも心理的にも頼ることのできない子供を育ててしまいます。これが母の精神とリーダーシップだけでなく、家庭連合の中でもおこっています。現実に耳を傾けようともしないのです。

私は相続者であり、正式な後継者です。私の証は非常に重要で深刻です。人々は分かっていません。私はただ真の子女の一人だというだけではありません。相続者であり後継者です。私から発信したものは歴史的に非常に重要で深刻な内容です。歴史学者でその証を無視するなら、その人はバカです。ですから、現状に留まり、もらえるものを食いつぶし、クーデターの助けをしているような人たちは、(彼らの思い通りにうまくいってませんが、)「彼(亨進様)はその位置を自分で稼ぎとってはいない」 などと言っています。「彼は王権を稼いでいない。お父様の注ぎを稼いでいない。」

その通りですよ、おバカさん。お父様が様々な試練などの後にお決めになったことです。あなたではありませんよ、おバカさん!脳みそが死んでいる宦官みたいなおバカさん。(笑)もちろん、その通りです。これが、彼らが他の人にも真実を見せない本当の理由です。真実を聞けば、脳みそがある人で基本的な良心のある人には我々が嘘をついていないことが分かるからです。

私たちが予言したことが実際に起こっています。私たちが言った母の言葉がどんどん公に明らかになっています。なぜ我々がお父様を裏切りながらパレスに留まっていることができなかったのかも明確になっています。中途半端はありません。受け入れるか反対するかです。お父様の業績を消し去っていくか、いいえ私はやりませんと言うか。私の存在を使ってステージに立たせ、そのような裏切りを正当化させることはできません。そうですね。多くの家庭連合の人たちの問題は、聖書では偽逆と言いますが、終わりの時には羊がヤギから分けられるのです。終わりの時に真の信仰者と偽のものが分けられます。お金、あるいは他の物理的な利益のためにいる人と信仰のためにいる人たちにです。分けられるのです。

聖書にも終わりの日のことが予言されています。それが、私たちが見ていることです。真実の信仰のレベルがわかります。良心で彼らがやったことは間違っているとはっきりわかるのに、現状に留まる人。バンゴーの絵を変えますか?変えておいてバンゴーと呼びますか?全ての人がいいえと言います。

しかし彼らは知的なレベルに(彼らにはあまりそれがないですが)持ち上げ、良心を避けて、心の声を避けて、様々な理屈を並べます。でもバンゴーの絵は変えられています。この世の芸術家に対してもそのような敬意を払います。しかし再臨のメシアに対してはそれができないというのです。あなたは詐欺師です。どんなにごまかして理屈を並べても関係ありません。あなたは詐欺師です。それがあなたです。偽物です。偽の詐欺師です。決して信じてなどいません。ですから誰が救われ誰が救われないのか明確です。

マタイ伝7章でイエス様は 22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 

 

と言われました。キリスト、イエスを信じていると言ってるだけではイエスと一緒にいることにはなりません。公言しているだけでは意味がありません。ポイントはそれが真実の信仰であるかということです。イエス様が言われるように、全ての心と思いと魂と力を伴っているかということです。それがあなたの愛のレベルですか?

聖書にもありましたが、犬が吐いたものに戻っていくというのです。汚いですね。犬を見ると本当にそういうことがありますね。吐いてそれを食べに行くのです。多くの家庭連合の人たちの問題は、彼らが大変な罪深い人たちであることが分かっていないことです。それを認めたくないのです。彼ら自身に対する思いを壊してしまうからです。「私は、それはとても批判的な言葉だと思います」などと言ってますね。これは人類がとても騙されていることです。いいえ、いいえ、いいえ 私は善良な人間です。スターリンやヒットラーのように悪いことはしません。近所の悪い人たちのようでもありません。私はあんな悪いことはしません。私はいい人です。これが、人々が大変錯覚していることです。神はモーゼの時まで律法を与えませんでしたね。アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、、、彼らには律法がありませんでした。面白いですね。律法によっては救われません。律法によって預言者になるのではありません。アブラハムは律法を持っていませんでした。

神はモーゼに律法を与え、人々に与えるようにされました。人々があまりにも異端になってしまったからです。エジプトの異端の神、文化を受け入れたからです。淫乱も文化の一部として受け入れました。それで神は、話しましたが、鏡のような律法を授けました。

出エジプト記 第20章 12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。13 あなたは殺してはならない。14 あなたは姦淫してはならない。15 あなたは盗んではならない。16 あなたは隣人について、偽証してはならない。17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

あなたがどれだけ離れているかを見せてくれる鏡です。ほとんどの人は自分がいい人だと思っていますが、とても傲慢です。自分が悪いと思っていません。悪をすることができるとも思っていません。嘘です。完全な嘘です。権力とチャンスの誘惑の立場に立ったら、ほとんどの人は堕落します。ロードオブリングでもありましたね。あのリング覚えてますか?自分がそのリングをつければ大丈夫!などと言ってそのリングをつけた全ての人が間違いを犯していくのです。あの映画覚えてますか?

私たちが「自分は神様の律法を破っていた」と言う事を一度理解するのはとても興味深い事です。例えば「私はとても良い人間だ」といつも言っている人…それは、本当でしょうか?あなたが本当に良い人か否かということを小さなテストをすることで知ることができるでしょう?そしてここにいる私たちの大部分の人は、既にそれを通過して知っています。

あなたは嘘を付いたことがありますか?あなたはたとえ小さな嘘でも付いた事がありますか?たとえ小さくても噓は嘘です。「はい、あります…何回も又は数え切れない程、又は3回」普通、人々は笑ってこう言います「皆誰でもしている事です、ハッハッハッ」と。でも私はそういう人たちを気の毒に思います。あなたは 嘘をつく人を何と呼びますか?それは嘘つきと呼びます。それはどんなあなたを作りますか?それは嘘つきと言う人です。どうでしょう、あなたはどんなものでも盗んだことがありますか?何かをとったこと?誰かの時間を奪いとったことありますか?私物ではない会社の小さなものを取ったことがありますか?私物ではない何かをインターネットからダウンロードした事がありますか?それではあなたは盗難を犯したことになります。たとえ小さな盗難でもそれは盗難です。もし私たちがどんな種類の盗難でも犯したなら、それは私たちを泥棒にしています。

聖書ははっきりと話しています。姦淫、姦淫を犯した者、泥棒、同性愛者、嘘付き、それらは神の国に入れませんと…。嘘つきたちも含まれました。天国に入れません。たとえそれが小さな嘘だったとしてもです。

冒涜はどうでしょう?私達の中で何人の人がアメリカの言語の「オーマイガットなんて事だ!又はガットダーンこんちくしょう」などを使っている事でしょう。それは最も誇るべき栄光、そして崇拝すべき神様の名前が呪いの言葉として時に使われているのです。時にはただ「ああ驚いた」と表現する時に使ったり「ジーウィズ」と言ったりします。その言葉の使い方は一般的に良い驚きではなく、その人を見下したような取るに足りない人だという時に使います。考えて見てください。もしあなたが何回もつま先を突き刺され、その度にあなたが「ああサンミョン厶ーン!」と言ったら、お父様は喜んでその様子を見るでしょうか?それともお父様はあなたの顔をパンチされるでしょうか?「私の名前をそんなふうに使うな!」と言われるでしょう。あなたはつま先を突き刺される以上に傷つくことになります。だからもしあなたが神様の名前を無駄に使う時、私たちは不信仰者と呼ばれます。なぜなら神様の名前を不信する事は深刻な犯罪だからです。その罪によって人々は命さえ落とすのです。そしてイエス様も言われました。「もしあなたが他の人を情欲の思いを持って見たなら、あなたはすでに内なる心で姦淫を犯したのである…」と。

人を情欲の思いで見たことがない人がいるでしょうか?手を上げてみてください。もういいでしょう、あなたはすべて犯しています。あなたは密通者なのです。これが問題なのです。人々は罪の基準を理解していません。実際には人々はそれを相対化しようとします。「そう誰でもしていることでしょう。誰がそれをやめさせることができるでしょうか?誰もがそのように考えていることです」と。それでも問題は解決されません。あなたはそれでもまだ密通者に変わりはないのです。

それは理屈に適っていることでしょう?もしそれがあなたの気分を害したとしてもどうしようもないのです。あなたはそれでも密通者なのです。だから信仰を持った人たちのために、私たちの完全性天国、または神様の存在それらを通じて、神様は私達の傲慢な心を砕くための大切で便利な道具を与えてくださいました。大変便利な道具です。それが神様の律法です。

神様の律法は私たちを救うことはできません。しかし神様の律法は私たちの不真実をさし示してくれます。そしてその問題について多くの人はこう言います。「わかりました私は罪人です。もうこれでいいでしょう。私は罪を犯しました」と。そしてその後、人々が何をするかと言うと、今までと同じ悪い癖をそのまま続けて同じ悪い状態で居続けるのです。「わかりました私は確かに罪を犯しました。私は悪人です。私は罪人です。私はこんなだ、あんなだ、そうです、私はこれをしました。そして私はそれをしました。そして私がそのことについて考える時、私はこれをしてしまったので、私は多分自分が思っていたより価値のない人間です。そして私は実際に私の妹にこんなこともしてしまいました。そして私は私の友達にそんな事も一度してしまいました。それらのことについて考えると、私は自分が考えるより多分価値のない人間なのだと思うのです。」これが、人々がし続けていることです。

しかし私にひとつ質問をさせてください。それはもちろん明らかに誰もがそうなのですが、あなたが罪人であるという事実にとどまっている時、あなたは誰に焦点を当てているでしょうか?あなたは神様に焦点を当てていますか?それともあなた自身ですか?それなので、実際にはさらに自己嫌悪が自己崇拝を作り、マイナスの視点をあなた自身に与え、自分はいつも犠牲者なのだと思わせて行くのです。それなのでこれらは異なった形の自己崇拝ということになります。

鏡の持つ役割は、私たちが鏡の中を、自分自身を見るだけのために見続けることではありません。鏡の役目は何かと言うと「私の無愛想な顔がここにあって、私の口からはよだれが垂れていて」そんなふうに鏡に映った自分を見れば、水で綺麗に洗わなくてはならないと教えてくれるでしょう。

律法によってのみ完成されると信じている人たちは、鏡に映った自らの汚れを見て、鏡から身を外して鏡に映った自分を綺麗にしようとします。それでは自分自身を綺麗にすることはできません。鏡はあなたを綺麗にはしてくれないでしょう。ただ真実の姿のあなたを映し出してくれるでしょう。何があなたを綺麗にしてくれるかと言うと、それは永遠の命の水です。それがあなたを清め綺麗にしてくれるでしょう。何があなたを洗い清め、完成させ、完全な義人にしてくれるでしょうか?それはあなたの働きによってではなく、神様の御業によるものなのです。あなたが信頼を持った時、あなたが信じた時、そしてあなたが救世主キリストとの関係を持ったときです。それは何故かと言うと、キリストはあなたのように罪を持っていません。罪人ではありません。キリストは不誠実、嘘、憎しみ、そのような思いを持っていません。キリストは完璧な存在なのです。そして私たちがキリストを受け入れるとき、私たちはキリストの中に存在することができます。

例えば法廷で裁判官の前に行くとき、裁判官があなたの犯罪リストを作ります。そして今刑が決まり、裁判は終わり、刑が執行されます。この人はこれを犯したので、これとこれの犯罪に値し、すべての罪が有罪となります。この時、もしあなたがキリストと関係があるならば、神様は裁判室にいるあなたを見つめるとき、誰を見つめているでしょうか?神様はキリストを見つめているのです。そうして神様は言われます。「こら、あなたはこの裁判室で何をしているのですか?息子よ、ここから脱出しなさい」 あなたが血で覆われ、キリストで覆われているなら、そんなことが起きるのです。神様はその時、キリストの完全性を見つめて下さり、あなたの不完全性を見つめるのではないのです。

「あなた自身をただ愛しなさい」と言いたがる、非常に多くの心理学者とリベラルな異教徒達がいます。彼らはこう言います。「あなたはただ自分自身を受け入れればいいのです。罪悪感と恥は、自分自身についてより悪く感じさせるためのただの言葉です」それは間違っています。罪悪感や恥は、真実真実真実なのです。たとえあなたが神様を信じない人であってもです。そのことはとても重要な革命的な考え方なのです。とても大切なことです。

しかし、もしあなたが創造主の視点を持っている場合、罪悪感や恥は私たちを考え直させ、私達から遠ざけてくれます。そして神様の方向に向けてくれます。私たちが罪悪感や恥を持っていることは驚くことではありません。私たちは1日中それに悶え、泳ぎ回り、苦しみの人生を送っているのです。私たちは自分自身から出てくるドロドロの液体の風呂に入るようなことはしません。私たちはこのように言うべきなのです「私は汚れています。ここから脱出しなければなりません。」そのことが重要なのです。一度罪人が自分自身を罪人と認め、敗北すると、罪人は何をするかと言うと、自分自身に執着して罪人である事実に苦しむ人生を送るのです。否定的な視点で注意を引こうとします。子供が良くすることです。彼らはこれを実行しようとします。彼らは神様に対する反乱で敗北しています。今、神の律法、神様の基準で測るとき、罪人であることを認めざるを得ません。あなたが神様の正義の基準によって判決された時、有罪でしょうか?無罪でしょうか?申し訳ありませんそれは有罪です。天国でしょうか?地獄でしょうか?申し訳ありません。それは地獄です。神様から分離させられるのです。神様の中に存在することはできません。それはとても簡単な答えなのです。彼らは神様から敗北したことを認めるとき、最終的に何をするか、それは自己崇拝をするので苦しい人生を送らされます。あなたはこれが理解できますね。もちろんもうひとつ、信仰者の振りをして偶像崇拝に陥る卑劣な方法もあります。「じゃあもういいよ、私はどうせ悪い人間です。私が私が私が私が…」はいもう分かりました。子供みたいな人達よ、私たちはあなた方が誰に注意を当てているか知っています。鏡を見るときは1日中、その前に立ち続けてみたりはしません。鏡の前に立って目ヤニ、鼻水、ボサボサの頭にも関わらず、鏡に向かって「私の髪の毛見て、この部分が少し乱れているし、ここが白くなっているし、白髪が増えてきた」と言ったりします。

そんなことが大切なことではないでしょう。鏡の役目は前に立って何時間も見つめていることではありません。鏡の大切な目的は、鏡に映ったあなたを見て、あなたが汚れを見つけそれを綺麗にすることです。そうでしょう?鏡の大切な役割はその人の汚れを見せて、それをその人に綺麗に洗わせる事です。そうでしょ?これは同じことです。100年以上にわたるクリスチャン教会が「気分が良い」という思いでイエス様を信じていれば、今が人生最高の時だと思わせています。ジョンオースチンとかがやっているように、肯定的心理学を使った説教で福音をしていません。

鏡の持つ大切な点は、私たちを水にたどり着かせることです。バラシュートの話の大切な点は、安全に着地させることです。私達がイエス様に頼ること、パラシュートをつけることは、快適な飛行をするためでなく、時が来たらジャンプして安全に着地するためです。死なないためです。

しかし、最近のエバンジェリストやファミリーフエドも同様です。我々は何を得られるか、人々をここに留めて何を得られるかを考えています。だから「ああ、あなたはイエス様を愛しています。イエス様が必要です。あなたの心にイエス様の形をした穴があります。だから、この小さな祈りをするだけであなたは救われ、自由になります。」と教えます。

ところが、調査によると、このように祈りをし、クリスチャンになる誓いをした95%~98%の人が、1年後には去っています。1年後には98%の人がクリスチャンではなくなっています。何故、死亡率が98%なのでしょうか?パラシュートの例のように使用説明書に従ってきちんとたたみ、着用していたらパラシュートは必ず開きます。体重や身長に関わらず、誰ものパラシュートが開きます。しかし、急いでパックをして沢山の人をドアから入れようとする人がいます。しかし、このように急いでパックした会社によって搭乗した人の 90%が死に至ります。どうなりますか?これは大きな問題になります。この会社の人はこう考えます。多分 使用説明書を読んでいたらきっと助けになる。その考えは効果がありますか?ありませんか?もちろんあります。

ファーストパッカーコミュニティと言いましょうか、彼らは肯定的に言うので、例えばコップに水が半分満たされているという(コップに水が半分しかないでなく)。彼らは90%の人が死んだのに、1人、いや10%の人が生存したという。馬鹿者が、、、すべての人が助かっていたはずなのに。彼らは90%を死に至らせた。これは問題です。パラシュートをつけるのはイエス様との関係を結び、イエス様に委ねる為であって、快適な飛行をする為ではない。パラシュートをつけているので人々から嘲笑罵倒され、彼らから嫌われるので、搭乗は決して快いものではない。

25000マイル上空で飛び降り、パラシュートを使わなければならない。その間どんなに嘲笑罵倒があっても、飛び降りる時が来たらあなたは紐を引き、パラシュートが開くので、あなたは笑顔になります。私達に最後の日がきて神様と向き合った時どうしますか?裁判所で、裁判官に面した時、どういう嘘をつきますか?「神は許しの神です、、、」これはブル!それではこの方法を使ってみよう。あなたの罪に対して審判が下されるとき、「あなたは良い人で許しの人です」という。良い裁判官は法律に従い公正な審判をします。「私は良い裁判官ですから法に従わなくてはなりません」という。

ある三人のティーンエイジの女性を殺した人が「私はこの裁判所に来るとき、ドアにつまずいて足の指を折りました。私は既に苦しみを受けました。ですから私の刑を軽くしてください。」という。

多くの信仰者が、私はこのような蕩減条件をしました、厳しい断食をしました等々言うのは、私は足指を折ったので殺人の刑罰を軽くして下さいと言っているのと同じです。全ての裁判官があなたはでたらめを言っている。今直ぐに精神鑑定を受けるように言います。裁判所でこのようなこと、「許しの裁判官、私の罪を赦してください」などとは決して言えません。なぜこのようなことを神様に言えますか?自分をすでに有罪としています。

これは荒野での出来事です。もう既に多くの人が知っていますね。神様が火の蛇をイスラエルに送られました。なぜなら人々が高慢だったからです。彼等は「私たちは良い人間です。罪人ではありません。貧しい人々を助けます」と言った。神様は火の蛇を送り、蛇はイスラエルの高慢な人々を噛みました。

民数記21:6~9 6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

神様はモーセに命じ、火の蛇を作って竿の上にかけなさい。噛まれた人でこれを見た人はすべて生きるでしょう、と言われた。面白い話ですね。聞いたことがありますか。また、ヨハネの福音書3:14に興味深い句があります。イエス様自身が語っておられます。神はその独り子を賜った程に、この世を愛してくださった。それは御子を信ずる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。

イエス様はこの古い話を使って自分の未来に来る十字架の話をしておられます。この古い話の中で青銅の蛇を掲げなさいと言っているように、今掲げられる私を信じる人は一人も滅びない、と言われている。興味深いですね。

言い換えると、どのようにしてこれらの人々が神に対して罪を犯していると悟りますか?神は火の蛇を送られたでしょう。神は自分の立場を理解できるようにと、鏡を送られたでしよう。十戒のみ言は火の蛇が向かってきてあなたに罪があることを悟らせます。「はい、私は神に対して罪があります。神から遠ざかっています。淫行を行いました、と強く悟らせます。強引に自分で責任を取るように迫っていますか?

「おお今私は足を噛まれた。自分を信じなければならない。私は大丈夫、自分を信じよう」 あなたの足が毒に侵されたら医者が必要です。今すぐ病院に行って解毒剤を受けなくてはなりません。自分に頼るのではなく、解毒剤に頼らなければなりません。火の蛇はその解毒剤が必要であることを悟らせようとしています。すなわち神様に頼ることです。そうでしょう。

同じように、私達が罪の現実と向き合った時、解毒剤は何か、私はどうすべきかと考えます。どうしよう、誰が私を救ってくれるのか?と。私は審判の日に有罪です。誰が私を救ってくれますか?とキリストに向かうように強く促します。だから今、ファミリーフエツドの人たちも身悶えしながらこの私の話を聞いています。なぜですか?第一に、彼らは神に反逆していると自覚したくないのです。自己正義感に固まっています。玉ねぎにたとえてみましょう。皮を一枚一枚はがして行くと涙が出てくるでしょう。あなた方も自己正義感を一つひとつ剥がして涙を流さなくてはなりません。

「神の前に私は良い人間です。お父様、私は良い人間です。」韓マザーも同じです。「真のお父様が私を誇りに思っています。私は正しい、良いことをしています。」と言います。気違い染みていて狂気です。周りの人々も、ええ、私たちは頑張っています。私達にもっとお金をください。この人たちは全く冗談だよ。レイ カンフォート(ray comfort) が良い例を挙げています。ある人の所に行って「誰かが2万五千ドルの罰金を払ってあげたのでおまえは釈放された」と言います。その人は「それはどう言う意味だ?どうして私には2万5千ドルの罰金があるのだ?私は何も悪い事をしていない」と言うでしょう。そして彼はあたなに怒ってくるかもしれません。それは丁度、誰かがあなたの所に来て、イエス様があなたの為に苦難を受けて死にました、と言うようなものです。ギフトを上げているようなものです。しかし、まず初めに彼がどんな間違いを犯したのかを判らせなければいけません。

代わりにこう言ってみましょう。警官が、あなたが運転している10枚の写真を撮りました。最高速度15マイルの所を50マイルで走っていた。そこは盲目の子供達の大会をしていたからです。一回に付き2千5百ドルの罰金と服役が必要で、それが10回です。しかし誰かがあなたの罰金を払ってあげました。ちょっと考えてみましょう。このような交通事情を聞くと「私は何も知らなかった、盲目の子供達の大会なんて、何も知らないし、スピード違反もしていない」と答えるでしょう。パトカーのサイレンとライトを見れば、これはまずい事になったと思うでしょう。

ここで何人の人が、周りの車が時速80とか90マイルでスピード違反して走っている時に、同じように走っていたことがありますか?何人ですか?手をあげてください。知ってますよ。あんたたち、そうでしょ。ほらやってますね。みんなやってます。何が悪い?という感じで。

でも、もしいきなりサイレンが鳴り、バックミラーに赤いライトのフラッシュが見え、警察が後ろにきていたら、その時あなたの心の中で「みんなやってるよ」と言うでしょうか?それともスピードメーターをみて「あららー、どれ位のスピード出してたのか?」というでしょうか。どっちを言うでしょうか?心の中でまず何を思うかです。「みんなスピード出してるよー」と思うか、「あらら、83マイルも出しちゃった」と思うかです。

すぐに個人的な罪意識が関わってくるのが分かります。個人的にあなたが犯した罪に対してです。そしてそのことに対して個人的に罰せられます。分かりますか?その罪がわかる時に「やっちゃった、300ドルのチケット払わないといけないな。仕方ない。」と思うのです。そこが違いです。あなたが犯した罪に対して誰かが払ったということです。どれほど感謝の思いが湧いてくるでしょうか?時速90マイルも出したのに、彼が許してくれるというのです。どんなにいい気分か分かりますか?そうでしょ。しかし、そういうことを何もわからずに、罪を犯したということも知らずに、誰かが25000ドルの罰金を払ってくれたと言われても「ああそう?まあ、なんでもいいけどありがと」と言い、何もなかったようにしか感じません。これが違いです。これが現代の改信者の問題です。彼らは間違った事をしたとは思わないのです。律法の蛇、律法の純粋さに懲らしめられた事が無いからです。彼らは自分たちが罪人であり、嘘つきであり、姦通者であり、心の中の殺人者であり、詐欺師であり、泥棒である事を知らず、自分は善人だと思っています。どうして自分には2万5千ドルの罰金があるのだ?自分は良い人間だ。何も悪い事はしていないと思っています。

だから、キリストがあなたの為に苦難をしたと言う賜物は無意味になっています。95パーセントの改信者がまた元に戻っています。偽の改信者です。キリストとの関係が無く、聖霊によって再創造されていない人が、悪の道から変わってキリストを真に感じています。罪が現実であり、永遠の生命が現実であることを理解しています。そのような事が判る人は神様が今までどれほどされてきたか、1万の十字架を私と私の血統の為に背負ってこられたことを感じ、とても感謝できます。

人生の目的は原理で最初に言っているように、誰もが幸福を求めています。しかし、神様の私たちへの目的は、勿論、唯単に幸福になるだけではありません。真のお父様を見れば判ります。お父様は私たちが幸福になるだけではなく、強くなる事を願っておられます。しかし、家庭連合を見ると、彼らは生ぬるい人達で偽の改信者です。真のお父様に充分耐えてきたので、勲章を得て信仰深い点を見せたいと思っています。でも、直接真のお父様に仕えてはいませんでしたし、共に生活していたわけではありません。

私たちは、本性が判らない時には本当の許しが判りませんし、無意味で何でも無いと思います。丁度ダビデとナタンの話の通りです。ダビデはバテシバを盗み、友達を殺させました。友達をうらやみ、姦通もし、全ての10戒を破りました。それでもダビデは自分を良い王だと思っていました。そして、神様はナタンを送ります。ナタンはダビデに言います。高原でこんな男の話を聞きました。腹が減って飢えていた一人の男がいて、羊を一匹持っていました。そこに金持ちで何千もの羊を所有している人が来ました。この金持ちはその死にそうな人に羊を一匹あげる事も出来たでしょう。しかしその金持ちは羊をその人から取り上げ、貧しい人に分け与えようとしました。プログレシブな民主党員のような人です。お金を盗んで他の人にあげ、いい事をしているような気でいます。自分はエスカレーター付きのマンションを持っていてもです。ナタンがこの話をダビデにした時、ダビデはこの悪人は4倍の罪を償わなければならないし、死刑にすべきだと言いました。ところが、ナタンは、残念だがその男はお前で、お前が他の人の羊を盗み、その人を殺したと言いました。それで次にどうなったのでしょうか?ダビデは自分が罪人だと悟り、神の前に罪を犯したと叫び、悔い改めました。それで、ナタンは彼を慰め、神は慈悲を与えるからあなたは死ぬ事は無いと言いました。ダビデは慈悲を受け、非常に有り難い思いになりました。

みんながしていると言う感覚ではなく、一度罪を犯した事を個人的に感じると本当に感謝します。ポイントは、はい、私は嘘つきです、はい、泥棒です、はい、心の中で姦淫しています、はい、神の冒涜者です。私がです。ダビデが個人的にその罪の責任に問われる事を理解した時、罰を受ける事を悟り、神様が慈悲を与えました。神様が慈悲を与えた時、彼は感謝に満ちていたでしょうか?それとも、何も思わなかったでしょうか?彼は生涯を変えるような体験をしたでしょうか、しなかったでしょうか?生涯が変わりました。何故なら、彼は神様の完全性の湧き出た現れである律法によって有罪となった事を理解したからです。確かに、聖書は、私たちは律法によって救われたのではないと言っています。しかし、律法は私たちには罪が有ると言う事を示してくれます。そして、それは私たちの罪を洗う為にキリストに送ってくれます。ポイントは律法と恩恵です。神様の王国が来る時、それは人間の力によってではありません。神様の恩恵によるものです。

例えば、ある時、天一国憲法が市民の権利と王権を守り、政府の過大な拡張を防ぎます。今まで、色々な機会にそのような内容を話してきました。これらは、私たちの中の誰かが偉業を成し遂げたと言うわけではありません。それは神様からの保障としての恩恵です。神様を信じる人達はその保障を受けます。イエス様は私たちのする事は神を愛する事だと言われました。それだけです。心を尽くして、知性を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、神様を愛しなさい。

現代の自由という事を考えてみると、それは何処から来ているのでしょうか?私たちは自由を獲得したのですか、それとも造ったのでしょうか?私たちは自然の権利を自分で作り上げたのでしょうか?それは可能でしょうか?他の人々は別の自由を作るのでしょうか?どうして自然の権利と言うのでしょうか?それは神様が下さったからです。神様が言論の自由を私たちに与えられたのです。神様が自己防衛権を与えられたのです。それは、ある意味では10戒が私たちの堕落性を映し出すようなものです。憲法も国家レベルで人間の誘惑や堕落性を表示しています。それは歴史を通して、国が失敗を繰り返してきた事を教えています。人間個人に限らず、国としてもです。私たちはこれまで天使長の力の成長を許してきました。嘘つきな政治家が私たちの力を盗むのを許してきました。政府が集中して権力を拡大するのを許して来ました。私たちはいつも奴隷のようなものです。その行動がパターンとなって表れています。男女の投票の時のパターンのようです。女性は政府の拡大の傾向に沿って投票します。人間がどの様に社会を崩壊に導くのか、そのパターンが見えてきます。私たちは自分で思っている程良くありません。自分は善人だと思っている人は、ヒトラーの時代では他の人は皆しているからと言って同じ事をしていたでしょう。今日のアメリカでも、一般の人は他の人が皆しているからと言って胎内にいる5千4百万人の子供を中絶により殺す事を許しています。「何が悪いのだ、いいじゃないか」と言っています。これらの子供達は無罪なので、ヒトラーがやっていた事よりも悪いです。

真のお父様から祝福を受ける時、それは私たちが獲得したからではありません。血統は私たちが自分で得たものでは有りません。21年間働いたと言って血統の祝福が当然貰えるわけではありません。血統は、神が善で愛で勝利されたが故に、恩恵によって与えられたのです。我々の勝利の故ではありません。わかりますか?これが根本的に神様を真に信じている人と、そうでない人との違いです。神様との関係はどんなものですか?神様は甘いパパのようですか?ただ、いい気分にさせてくれる存在なのか?それとも、どうしても必要な存在であることをあなたに見せてくれますか?どうしても必要な存在であることを見せてくれていることが分かりますか?自分の汚れに直面するとき、それから抜け出そうとして自分自身に頼るのではなく、神の善と正義と完全な勝利に頼るのです。

本物と偽物の違いは何か、本物の信仰者は完全です。それが鍵です。キリストによってです。罪をまだ犯してはいても完全なのです。完成しているのです。キリストと全てにおいてひとつになっているからです。全ての栄光とクレジットを自分に返すことは絶対にありません。いつもキリストにいくのです。達成した全てのこと、いかなることも、美しい歌を作っても、いつも「神はとても良い!」「神がその歌を私にくれた」。美しい絵を描いて「神がその絵をくれた!」栄光を神に捧げます。自分のもとにとっておくのではありません。簡単なことです。善と悪の違いはとても簡単です。自分にとるか、神に捧げるかです。全ての哲学は「自分でとっておきなさい。そうするべきです。それはいいのです。力です。素晴らしい。現代的だ、、、」とか言ってますが、自分自身にやっているのです。自分でとっておいているだけです。それだけです。古い、つまらない、異端の、使い物にならない、最終的には破壊的なものです。あなたは自分だけで全ての巨人を征服することはできないからです。

栄光を神に捧げる人たちは弱かったとしても強いのです。立ち上がることができなくても、立ち上がれるのです。敗北したとしても勝つのです。神が硬い岩の基盤だからです。

個人的な勝利基盤のもとに生きるのではなく、神の勝利を見るために生きるのです。我々の目的は神が勝利することを喜び、自分が勝つことが目的ではありません。神の勝利を見るのです。そのような人は違ったタイプのパワーがあります。完全に違ったタイプのパワーです。

彼らが神の法によって裁かれ、神が裁くとき、自分は汚れている、堕落した、腐敗した、よくない。神自身でなくても神の法によって裁かれるとき、あまりにも臭い。そうでしょう。でもそこに留まるのが目的ではなく、でも神は汚れてない、でも神は臭くない、でも神は嘘をつかない、でも神は盗みをしない、でも神は姦淫をしない、でも神は冒涜しない、そして神は私を罪から救ってくれた。私は神とひとつだ。私は神の側だ。そのようにして私は勝利する。あなたに勝つぞ、サタン!私はあなたよりも力がある!あなたは私を訴えることはできない!それが3日儀式です。サタンはあなたとあなたの妻を訴えることはできません。私の業によってではなく、神の業によって。完全に分かれています。

天聖経134 もしアダムとエバが堕落しなかったら、創造主である神は永遠の王となっていました。しかし堕落によってサタンが世界の王になりました。これを避けることができませんでした。誇り高く生まれ育った少女が侵略者に侵された場合、誰に所有されますか?その侵略者です。これが堕落で起こったことです。

韓お母様に起こったことはこれ以上に悪いのです。彼女が自分から進んで結婚したからです。姦淫者たち、来なさい。結婚しましょう。ですから、彼女のレベルでの堕落は世界を滅ぼします。この世界の祝福を破壊しました。私たちが生きてきた元の祝福。彼女が盗みとった祝福の基盤もそれが今崩れています。

でも、これは将来の全ての人々にとって重要なレッスンです。自分自身の栄光のために生きるとき、あなたは滅びます。あなたは滅びます。自分自身の栄光のために生きるとき、自分自身を神とするとき、あなたは滅びます。善の人たちはそれをさせません。キリストの義によってあなたに立ち向かってきます。そしてあなたを滅ぼします。それから逃げることができるなどと決して思わないでください。義の者が追っかけてきます。それが神の善です。神に感謝します。そのように悪が乗り越えられ、滅ぼされるのです。

今日神を賛美するとき、大変重要なことは他のクリスチャン教会のように聞こえがいいことだけ語ってブルをしたくはありません。BSではなく真実です。真実は自分を厳しく見つめることです。ですからマーシャルアーツもします。真実に向き合うのが好きですからね。(笑)飾られたような、幼稚な偽物は嫌です。本物が欲しいのです。神との真実の関係が欲しいのです。私達は本物の人でありたいのです。ごまかされた偽の信仰者ではありません。神を愛する、神を信じる、神を知る、神と関係を持つ、真実の人たちでありたいのです。最終的にはそれしかありません。私たちが死に、パラシュートを持ってジャンプするときにはそれしかないのです。他の何も関係ありません。他のどんな言い訳もできません。他の全てのことはどうでもいいのです。SOS、歌の準備してください。みなさん、賛美の歌を歌いながら自分自身に真実でありましょう。法の目的を理解し、鏡の目的、それが我々を悔い改めに導いているのか、自分自身よりも神を見ているのか、信じられない神の慈愛、神の犠牲、それを我々はしなければいけません。そこにたどり着くのが適切です。神は私たちが「自分は罪人だ。自分はひどい、ひどい、ひどい、、」と落ち込むのを見たくはありません。それが鏡の目的ではありません。鏡の目的は洗うことです。そうですね。ですからあなたの心が「オーケー、私は罪人ですよ。それでいいですか?自分は悪い、、、」とそれは自分自身を自己崇拝しているのです。自分自身の理解に頼るのではないということです。自分の理解で解決するのではないということです。神との関係を持ちに来てください。立ち上がって神に誇りと賛美と栄光を捧げましょう。

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